第2章

神崎吉弥には家のしきたりがある。会議中は携帯の電源を入れてはならない。

神崎斗真は慌ててスマホを掴み、すぐに切ろうとした。

「出ろ」

吉弥が冷たく言い放つ。

斗真は咳払いをして言い訳しかけた。

「父さん、知らない番号で……」

吉弥はグラスをことんと置き、声を落とした。

「出ろ。スピーカーだ」

神崎岳が、気の毒そうに斗真をちらりと見る。

斗真は仕方なく通話を取り、スピーカーを入れた。

次の瞬間。

小さな声が、前触れもなく耳に飛び込んできた。

「もし……斗真おじさん、ですか……?」

「わたし、紬……ママは神崎実里……斗真おじさんは、神崎斗真……?」

弱々しく、感情の起伏がほとんどない声。まるで小さな機械みたいに、淡々としている。

神崎家の空気が、一瞬で変わった。

――ぱたん。

吉弥の指先から、ペンのキャップが落ちる。

誰も声が出ない。喉を掴まれたみたいに、息すら止まる。

電話の向こうの幼い声は続いた。

「斗真おじさん……紬、寒い……おなか、すいた……」

「紬、おばさんを押してない……でも、みんな信じない……」

「パパが、玄関で跪けって……でも、寒い……斗真おじさん、迎えに来てくれる……?」

最後は、ほとんど消え入りそうだった。

吹雪の音だけが、ひゅうひゅうと微かに聞こえ――

ぷつり、と途切れた。

斗真がようやく我に返り、スマホを口元に押し当てる勢いで叫ぶ。

「もしもし! 紬……紬!? どこだ、どこにいる! 斗真おじさんに言え!」

返事はない。

吉弥はよろめくように立ち上がった。さっきまでの硬い表情が崩れ、いきなり十歳は老けたように見える。

「早く! 番号を追え! 位置を出せ!」

紬は通話の途中で気を失い、携帯は雪の上に落ちた。

どれほど経ったのか。

水野源が携帯を探しに出てきて、動かない紬を見つける。つま先で軽く蹴った。

「死んだならそれでいい」

吐き捨てて、携帯を拾い上げる。

四年前、彼は一人の女を拾った。服はボロボロで、哀れに思って家へ連れ帰った。

洗わせてみると――驚くほど美人だった。

何も覚えていない、ぼんやりした様子が妙に可愛く見えて、源は舞い上がった。

「無理強いはしない」だの、くだらないほど優しくした。恋愛に酔った馬鹿みたいに。

今思い出すだけで吐き気がする。

流れのホームレス女だ。あちこちをさまよっている間に、誰に何をされていたかも分からない。

だから紬が、自分に似ていないのも当然だろう――。

疑っても、親子鑑定だけはしなかった。

もし違っていたら、自分は南市一の笑い者になる。

源は暖かい書斎へ戻り、電話をかけまくった。

「もしもし、岩田社長? 水野です。清原市の神崎家に繋がりのある方、ご存じないですか?」

「永井社長、清原市の神崎家の方とお知り合いですか? 実は会社が少し……」

外は吹雪。

紬は雪の上に伏せたまま、時間だけが過ぎていく。空はまた暗くなりかけていた。

意識は薄くあるのに、目が開かない。

ママが死んでから、泣かなかった。パパに殴られても、泣かなかった。

でも今は、少しだけ泣きたい。

斗真おじさんに電話したのに、向こうは何も言わなかった。

――やっぱり、いらない子なの?

この世界で、誰も自分を好きじゃない。

じゃあ、死んだあとママに会ったら……ママも、こんな自分を見て、いらないって言うの?

紬は凍えた唇を結び、心の中で繰り返す。

ママ……紬、泣かない。紬、いい子……

そのとき。

ごうごう、と遠くから重い音が近づいてきた。

水野家の別荘の門の外へ、黒い車が七、八台――。

先頭の車から、黒いダウンコートの男が降りる。迷いなく水野家の門を蹴り破った。

吹雪が強く、紬の小さな影は雪に埋もれかけている。

斗真は必死に辺りを見回した。電話で紬は言った――玄関で跪いている、と。

その瞬間、顔色が変わる。

玄関先に、小さな雪の山があった。

斗真は駆け寄り、素手で雪を掻き分けた。指先は真っ赤に腫れ、凍える。

ようやく――雪の下から、小さな身体が現れた。

「紬!?」

抱き上げた瞬間、確信した。

この顔は――妹が幼い頃の顔と、ほとんど同じだ。

神崎家が命より大事にしていた妹の子。

紬。

紬は温かい腕の中に落ちた気がした。相手が上着を脱いで包んでくれる。

だが凍えすぎた身体は麻痺していて、温もりを感じた次の瞬間も、骨の髄まで冷たいままだった。震えが止まらない。

紬は必死に目を開け、男の顔を見る。

ママに少し似ていて、でも違う。

唇がかすかに動く。

「……斗真おじさん……?」

「斗真おじさん……紬、押してない……」

本能のように呟いたところで、もう何も感じなくなった。

斗真の目に涙が滲む。

腕の中の子は薄いパジャマ一枚。

顔は紫色に変わり、唇はひび割れて黒ずんでいる。

小さな身体は動かず、まるで氷の人形だ。触れたら砕けそうで、恐ろしくなる。

「紬……斗真おじさんが来た。家に帰ろう」

声が詰まる。

もし、あと少し遅れていたら――この子は死んでいたかもしれない。

斗真は紬を抱え、雪を踏みしめ車へ走った。

「紬、もう少しだ。寝るな……」

掠れた声で懇願する。

「返事してくれ、頼む……」

「紬……!」

紬は、もう意識を失っていた。

吉弥が震えながら駆け寄り、斗真の膨らんだ上着を見て叫ぶ。

「どうだ!?」

斗真は声を張り上げる。

「早く! 病院だ、病院!」

神崎家の者たちは一斉に車へ飛び乗った。

そのころ、知らせを受けた水野源が慌てて階段を下りてきた。顔には抑えきれない歓喜が浮かんでいる。

さっき神崎家の連中が押し入ってきたとき、警備員に止められた。だが神崎雅志が名乗った途端、警備員は青くなって源へ通報したのだ。

神崎家と繋がる方法を必死に探していた源は、耳を疑った。

理由は分からない。だが来たなら、繋がれる。

水野家は助かる。

そう思った瞬間、源はふと何かを思い出し、使用人に怒鳴った。

「あのクソガキ、まだ庭に跪いてるのか? 今すぐ追い出せ!」

厄病神。

母親を死なせ、今度は自分の会社まで潰そうとしている。

せっかく神崎家に会えるのに、あいつに神崎家の方々を穢されてたまるか――。

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